LILAS
辻 智子 辻 智子

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辻 智子先生
北海道大学教育学研究院教授

いろいろなものさしや多元的な表現が
豊かな社会を作っていく

LILAS

Leaders for people with Innovation,
Liberty and AmbitionS.

フロントランナーとして活躍している女性リーダー(Leader)を紹介する女性研究者インタビューシリーズLILAS。リラはフランス語で札幌の花としても知られるライラック(Lilac)を意味します。 インタビューの内容から着想を得た植物のアレンジメントとともに、植物の持つ力強さやしなやかさ、多様性などのメッセージを媒介させながら、オリジナルインタビューシリーズとして発信していきます。

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第二回は教育学研究院の辻智子さん。辻さんは社会教育、青年教育、女性・ジェンダーと教育をテーマに実践と研究に両軸を置いて取り組んでいます。
昨今、リカレント教育として注目されている労働者教育や、耳にすることの多くなったダイバーシティやインクルージョンなどに対して大学が行う取り組みにある背景にこそ目を向けてその課題について長期的に取り組んでいくべきだと話します。

大学院生数人の小さな研究室出身。
北大生とは違う環境で育ってきた自分にできることは何だろうか。

研究室の運営で困ったことや気を付けていたことはありますか?

私の研究分野では論文は基本的に個人で執筆します。それは孤独な作業です。学生・院生が調査や分析・考察を進めていくことをサポートするのが私の役割ですが、どのようにかかわっていくのがいいのか、常に悩みます。
大学院生は、北大の教育学部から進学した方もいれば、他大学から進学した方もいますし、日本語教師や栄養士といった別の分野の専門職として働いてきた経験を持つ方もいます。このように背景が異なると、研究や議論の前提となる認識の基本的な枠組みや同じ言葉でも理解の仕方が違うということもあって難しいですね。
また、留学生の場合は文化的背景の違いもあり、例えば「コミュニティ」という言葉一つとっても、その理解の仕方が異なるため、それをめぐって議論し、すり合わせをしながら進めていきます。私も日々勉強です。

私の出身研究室は大学院生が数人しかいないような小さなところでした。東京都内だったため近くの他の大学の授業やゼミに参加させてもらったりすることもありました。
それに対して北大は一つの研究室に何人も院生がおり、また研究室を超えた院生どうしの関係も比較的親密なので、自主ゼミをしたり、文献を購読したり、ゼミや授業の後に、「さっき先生が言っていたことって、こういう意味?」などと院生どうしでやりとりしているのも日常の風景です。
こういった相互に学ぶ環境自体が私にとっては最初は新鮮でした。学生や院生の皆さんには、相互に切磋琢磨し、網の目のようなネットワークの中に身を置きながら、それぞれ、力をつけていっていただきたいと願っています。教員もまた、その研究ネットワークの中にあります。自身が携わってきた学問領域や培ってきた専門的知見から意見を述べたり、アドバイスをすることが求められます。

新しいものを生み出すには当然コンフリクトが生まれる。
互いの譲れないものがぶつかり合って研究は成就していく。

研究を指導する上で意識していることはありますか?

学生の頃、自分が取り組みたいテーマ、考えたいことについて、指導教員とうまく共有できませんでした。途中まではわかりあえそうなのだけれど、突き詰めて深いところまでいこうとすると、そこから先は難しい、理解してもらえなさそうだ、という経験をしました。
新しいものを生み出すということは、他者、特に自分よりも年長の人たちには理解されないという場面が不可避です。そこには当然、葛藤、コンフリクトが生まれます。私も安易に引き下がれないけれど、相手は相手で譲れないものがある、あるいは理解しているつもりでいるけれどもすれ違う、といった状況が生じます。
私は卒業論文のテーマをずっと継続して、修士課程、博士課程と進み、満期退学10年後に博士論文を提出しました。卒論から20年ほどかかったことになります。学生時代の指導教員はすでに亡くなられていましたので、もしご存命ならば、最終的に形になった私の博士論文を受け入れてくれただろうか、と思うことがあります。
こんな経験から、研究というのは、それぞれに譲れないものがあって、それらがぶつかり合って成就していくようなものなのではないかと考えるようになりました。そして、自分のこだわりの塊のような博士論文を周りの人に理解してもらうには、その表現方法や言葉を自前で生み出すことも避けられないかもしれません。
このような経験から、院生の方々には、「この人(指導教員)を乗り越えてやる!」と言われるくらいがちょうどいいのかもしれない、と思ったりします。

止まれない回転車の中をみんなで走っているのが今の状態。
この中に入る人を増やすことがダイバーシティではないはず。

ダイバーシティへのお考えをお聞かせください

差別や貧富の格差の問題をどのように乗り越えていけばよいのか、という問題意識から私は研究をスタートしました。
したがって、ダイバーシティは、自分の研究の基本的な課題であるという自覚があります。しかし、ダイバーシティが政策用語として流通し、外部評価指標として組み込まれ、女性の数を増やすことがダイバーシティであるかのような潮流の中で、疑問を感じることもあります。もちろん、それによって、従来、動かなかったものが動き始めた、ということはあるかもしれません。けれども、現在のダイバーシティ推進政策の行きつく先が、それぞれの人が対等に豊かに生きられるような社会というより、誰かが誰かを蹴落としていく競争的な社会だとすれば、それは本末転倒でしょう。

どこでも、今、大学では、女性研究者の比率を上げようとしていますが、それに対して、大学という職場の職員配置には余裕がなかったり、補充がなかったりして、出産休暇・育児休暇の取得自体が実質的に難しい状況にあるところも少なくないのではないでしょうか。家事、育児などのケア役割をいかにジェンダー平等にしていくか、直接的に言えば男性こそがそれを「自分ごと」としてとらえていけるかが課題だと感じています。大学という職場もまたケア役割を「存在しないこと」として排除してきたとするならば、そうしたあり方や構造を変えないと基本的な土台は変わりません。人が生きていく限り必ず誰かが引き受けかかわってゆくケアといういとなみをいつまでたっても女性だけが担っているとしたら、それこそダイバーシティではないですよね。皆がケアにかかわることを前提として、それでもきちんと回っていくように職場を変えていくことが重要だと考えます。このような意味で、性別分業の仕組みを根底から変えていかなければいけない今、数合わせの緊急手当のような形でダイバーシティの環境づくりを終わらせてはなりません。

一方で、大学は過剰に競争的な環境にさらされており、インパクトのある論文を早く書きなさいとか、利益を生み出すような研究で社会貢献しなさいとかと急かされ、短期間での数字の変化を根拠に順位づけされて研究資金や設備が投下されるといった状況があります。まるで、回転車の中で走らされ続けるハムスターみたいな気分です。ダイバーシティは、今、数値化されて評価指標の一つになっていますので、それがその回転車の回る速度を少しでも遅らせるために使われているとするならば、何かが違うように思います。ダイバーシティとは、それぞれの人権にかかわる重要な問題提起である、と捉えるならば、私たちを苦しめている、この回転車の仕組みとダイバーシティは、そう容易には両立しません。

私たちは、こうした矛盾の中に置かれているのだと思います。
先ほど話したケアの役割がわかりやすいのですが、ジェンダー平等の実現における核心は、資本主義社会で経済的生産性を唯一絶対の指標としないという点にあると考えます。ケアを大事にするとは、経済的利益を直接的には産出しないような場面にある豊かさを社会においてもっと大事にしていこうという発想だと言えます。ハムスターの回転車を女性も一緒に走りましょう、というのは違う話でしょう。
一緒になって走る回転車の中に女性や様々な人を巻き込んでいくことがダイバーシティではなくて、回転車の中で走らなくてもいい、降りてもいい、という発想や価値を大事にするのがダイバーシティというコンセプトだろうと思います。
この矛盾を認識しながら、矛盾だらけの現実の中で、何か少しでもよい変化を起こすために各所で様々な方が尽力されていることは承知しています。
私も、この視点は外さずにしっかりと持っていたいと思っています。

私のことを批判してくれる仲間に支えられて。

ロールモデルのような存在の方はいましたか?

自分がいた大学の学生が女性だけだったこともあり、先輩方の背中を見ながら、この社会で女性が研究者として生きていくということの困難と希望、そこにある挫折や葛藤も含めて、様々なロールモデルを目にしてきた、という実感はあります。ただ、実は学生時代はあまり大学には通っておらず、NGO・NPO、社会教育施設などで活動していたので、大学の外でも様々な人にたくさんの刺激を受けてきました。そして、そこで出会った方々を通して学んだものを私なりに研究という形へとまとめて表現する、というイメージをつくっていきました。ロールモデルというよりは、私のことを批判してくれたり、切磋琢磨していく仲間に恵まれたという方がしっくりくる気がします。
書斎の中だけにいる研究者にはなりたくないと思っていたので、自分の問題意識と方向性はあるけれど、いろいろな活動をしながら考えを巡らせて、試行錯誤していました。

しかし、問題意識から研究を進めていく段階では、とにかく本や論文を読むしかなく、読めば読むほど奥深くずぶずぶとはまっていくのに、それが自分の問いとどう関係するのか、どう位置づけていくのかに明確に答えられない、そんなジレンマがありました。
とにかく読んで、話して、問われて、答えて、書いて、叩かれて、書き直して…を繰り返しながら、らせん状に少しずつ進めていくしかないのですが、指導教員も亡くなり、出身大学には帰る所がなく、足場にするような研究拠点がないような状況で博士論文を書いていました。似たような境遇の仲間と自主ゼミのような形で研究会をやっていましたが、その存在に励まされて書き終えることができたと思っています。歯に衣着せぬ指摘をしてくれるような仲間は本当に大事ですね。

いろいろなものさしがあることが豊かな社会。

これから教育学部長、教育学院長として目指していきたいビジョンはありますか

4月に就任したばかりでまだ落ち着いて考えられていないというのが正直なところです。この役割は、大学や社会全体の動きに対して、教育学部・教育学院という部局がどのように関わっていくのかという舵取りをするところ、ハブになっているところなのですが、船の船頭と飛行機のオペレータを全部一緒にやっているような感じです。
自分の研究室と研究を回していくという今までのような立場からは大きく変わりました。人、お金のやりくり、組織と組織、人と人の関係の調整を、全体を見ながら動かし、舵取りしていく毎日なので、いろいろな場面で即座の判断を迫られ、自分自身が問われつづけています。

学部運営では、特に私たちのような小さいところでは、皆さんに力を発揮してもらい、協力しあわないとやっていけません。皆が疲弊していたら、いくら引っ張ってもついてきてくれませんので、皆さんがまずは前向きにそれぞれの研究を進めていかれるような、そうした環境を整えていくことが第一のミッションだと考えています。
社会の問題を、他者と知恵を出し合いながら、よりよい答えを探っていく、そうしたありようをどのような仕組によって支えうるか、といった研究の志向性のある学部だと感じていますので、研究の成果も斬新で目新しいものや、数値になって表れる成果といったものには必ずしもすべて直結せず、外から与えられる評価のものさしでは測れないと感じています。だとすれば、どのように伝えられるか、そのものさしも自前で生み出していくくらいの構えでやっていかなければならないと考えています。

いろいろなものさしや多元的な表現を作っていくのが研究の仕事でもあり、一つのものさしで測ることほどダイバーシティから遠いことはないと思います。いろいろなものさしがあることは豊かな社会につながります。「お金にならないものは価値がない」といった観点では測れないもの、また1~数年のタイムスパンでは測れないものも、大学や教育の場にはあるので、そうした理念も手放さずに持っていたいものです。

研究を志した原点は忘れずに、楽しみながらも真摯に。

これから上位職を目指す研究者の人たちへメッセージをお願いします

研究は楽しくも厳しい。厳しくも楽しい世界です。
研究を志した原点は忘れずに、楽しみながらも真摯に、やっていきたいものです。

必ずしも上位職と言えるかどうかわかりませんが、例えば、研究職に限らず、大学のゼミなどでとことん議論をしてお互いの認識の土台を鍛えあっていくような経験をした人には、職場などでも、そういう話し合いや対話を促す存在になりうるのではないでしょうか。何か問題があったときに、状況を整理したり、違う見方を提示したり、どうしていいかわからなかったら「ちょっとみんなで話してみない?」といった場や機会をつくったり、そうした役回りも、大学という場で学問と向き合ってきた人には期待されることだと思います。そういうかかわりや空間デザインをできる人を送り出していくのも大学の役割と言えるのではないでしょうか。

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“山代巴(1912-2004)は『荷車の歌』などで知られる広島出身の作家ですが、このシリーズ第1~10部は自身の歩みを小説にした作品です。失敗と挫折の連続だと自身が語る紆余曲折の半生とともに彼女が出会った様々な女たちの姿が描かれていて心打たれます。山代自身も含め囚人となった女たちのそれぞれの生きざまとその人なりの矜持が伝わってくる場面も印象的です。また戦後の日本の農村社会とそこで暮らす人々の本音を「どこにでもありそうな現代の民話」としてリアルに描き、最も立場の弱い者の目線に立って、どのようにしたら「日常茶飯の人権」が根づくのかを探った著作も読みごたえがあります(『岩でできた列島』『おかねさん』『原爆に生きて』『連帯の探求』など)。私にとっては、原点を見失わずに仕事をせよ、と叱咤激励してくれるような作品です。“

LILAS
Plant

ひと昔前は何もない土地と言われていた湿地は豊かな植生に溢れている。見ようとしないと見えないこと。学問が社会の中において開かれていることで何かが開いたり生まれたり。
植物はいつも物言わず私たちに投げかけてくる。耳を傾けること。そこから生まれてくる学問。

ツルコケモモ

学名:Vaccinium oxycoccos 科名・属名:ツツジ科スノキ属

ミズゴケの上に生えている。地面すれすれに花が咲き実がつく。

ツルアジサイ

学名:Hydrangea petiolaris 科名・属名:アジサイ科アジサイ属

湿地を好み高木や岩などに這って花を咲かせる。

ハイゴケ

学名:Hypnum plumaeforme Wilson 科名・属名:ハイゴケ科 ハイゴケ属

横に生長する。日当たりがよく風通しがいいところを好む。

LILASは北海道大学創基150周年事業です。北海道大学は2026年に創基150周年を迎えます。